先日チチャを150kで買うというchでチチャを8個売った。
取引場所にはオムニフォームと思しきペットを連れた取引相手がいた。
驚くべきことに、そのオムニの名前は「五十二個」であった。
おそらく52個のチチャを食われたのだろう。
そこで、さすがに8個も与えなくても進化するだろうと思い、一個ずつ売ることを提案した。
しかし、取引相手は断ってきた。
自分には損は無いので、そのまま八個売って、進化することを祈りつつその場を去った。
後日、同じくチチャを150kで買うというchを見かけたので、調べたところ同じ人のchであった。
ヌブールにいるようだったので見に行ったら、なんと「六十三個」という名前のオムニを連れていた。
恐ろしい。
ちなみに150k*63=9450k=9.45Mである。
少し足したら成体を買えそう。
〜ここからmoeに全く関係がない文章がはじまります〜
日記の特徴は秘匿性である。
本来日記は自ら見返して往時の心境や事実を確認するツールにあたる。
日記文学は通常見ることができない他者の秘密を暴くことにそのエンターテイメントの中核があるのであり、日記の秘匿性を利用した文学である。
秘匿性を持たない日記は日記たりえないのだ。
しかるにこのバハキチ日記はどうであろうか。
張ってあるログ解析の結果には塗りつぶされた部分があり、明らかに他者に見られることを意識した作りになっている。
文章に関しても自分が読むためのものとは違うものになっている。
例えば指示語だ。
指示語はその指示対象がはっきりしないと意味をなさない。
つまり、使用する際には文中の手がかりからその対象が発見できるか気を使わねばならない。
ところが、自分が読むだけの日記ならばそのような配慮はいらない。
自分が分かりさえすれば、どのように言葉をつかってもかまわないからだ。
ほかにも一文の長さにも気を使っている。
出来る限り接続語は一文に一語までにしようと心がけている。
一文が長いと主述が曖昧になりやすく、筆者自身も把握できない場合を生ぜしめうる。
しかしながら、自分は一文が長いほうを好む。
いちいち文を切って文頭に接続語をつけてつなぐのも、そのまま一文にしてつなげるのも文意はさしてかわらない。
それならば、一文でまとめたほうが簡潔あるいは単純に字数が少なく済むし、すくなくとも自分にとってはわかりやすいからだ。
他にも一文が長くなる原因がある。
それは連体修飾だ。
この連体修飾は動詞と目的語を名詞句としてまとめる機能をはたし、本来ならば一文使う内容を体言一つ分にすることが出来るのだ。
例えば、「富士山には毎年X人が登っている」をほぼ同意で「毎年X人が登る富士山」に変更することが出来る。
しかし文の構成要素が大きくなると一文が長くなるのは当然である。
従ってあまりこの連体修飾も用いないことにしている。
このようにバハキチ日記は他者の視線を意識した様々な日記としての不自然さをはらんでいる。
したがってバハキチ日記の秘匿性は限りなく薄く、またその日記性も存在しないといってもおかしくないほどに弱い。
しかし、今更改題するのもどうかと思ったため、バハキチ日記の「日記」を造語として成立させることにする。
日本語をそのまま英語として取り入れる際にはローマ字が用いられる。
例えば、柔道や相撲なんかはjudo、sumo wrestlingとなっている。
ただ、原語を指し示しているわけではないばあいも多い。
それゆえ、日本語をわざわざローマ字表記することにより、まがい物であるかのような意味を持たせる文化が生じつつある。
これをこの「日記」にも適用させる。
日記のローマ字化はそのまま「nikki」である。
これの発音は「にっき」であり、当て字するとすれば「日記」。
つまりバハキチ日記の「日記」は「nikki」の意(日記のようなものの意)であり、「nikki」の発音「にっき」に「日記」の字をを当てたものと解釈するのだ。
そうすれば日記のようなものでもそのまま「日記」を用いて問題ないのだ。